縄文 海 進 地図を現代の都市レイヤーに重ね合わせた瞬間、見慣れた首都圏の景観が一変する。私たちが日々通勤や買い物で飛び回っている東京・丸の内や埼玉の大宮、大宮台地のきわまで、かつては波が打ち寄せる内湾だったのだ。今から約7000年前から6000年前の縄文時代前期、地球規模の温暖化によって海水面が現在より最高で4〜5メートルほど高かった「縄文海進」。その全貌が、最新のデジタル標高データとオープンソースGISの融合によって、驚くほど緻密に蘇りつつある。
かつて文藝評論家で日本人の生活史を追究した樋口清之の著作や昭和の歴史学者が描いた概略図から半世紀。いまやスマホ画面上で縄文 海 進 地図を自在に拡大し、自宅の地盤がかつて「浅瀬」だったのか、それとも縄文人が集落を構えた「丘陵」だったのかを、メートル単位で検証できる時代となった。単なるノスタルジックな古代ロマンではない。地震による液状化や水害リスクの検証など、防災面からも極めて現代的な関心事として脚光を浴びているのだ。
東京・埼玉の都心部が海だった?最新地図が暴く古代海岸線の真実
「まさか日比谷公園や銀座の地下深くに、古代の砂浜が眠っているとは」——都内の土木工事現場を訪れると、地質調査の専門家からそんな言葉が漏れる。縄文時代の最高潮期、現代の東京湾ははるか内陸深くまで貫入していた。いわゆる「奥東京湾」と呼ばれる広大な内湾だ。
地図を開いてみよう。現在の山手線の東側、つまり秋葉原、上野、錦糸町、新橋といった低地エリアはほぼ完全に水没している。さらに驚くべきは埼玉県の「当時の海岸線」だ。川口や草加、越谷を経て、埼玉県の栗橋や藤岡付近、果ては栃木県境付近まで海が入り込んでいた。埼玉県大宮市街地の東側に広がる見沼田んぼ周辺は、まさに波静かな入江だったわけだ。武蔵野台地の東端にあたる高輪台地や本郷台地、上野高台などは、海へ突き出た岬のような地形を形成していた。都市の地名に「島」や「橋」、「津」が付く場所が多いのは、この縄文の地勢と無関係ではない。
国土地理院の3DデータとGoogle Earthで見る縄文時代の関東平野
古代の地形を可視化する技術は、ここ数年で飛躍的な進化を遂げた。かつての手描き地形図に代わり、主役となったのが国土地理院が提供する基盤地図情報や航空レーザー測量データだ。数メートル精度の標高モデル(DEM)を用いることで、人工的な盛り土やビル群をデジタル処理で「剥ぎ取り」、原始の地球表面を露出させることができる。
さらに、これらの標高データをGoogle EarthやQGISといったツールに取り込み、過去の推定海水面(標高4〜5mライン)を透過表示させることで、誰でも直感的に縄文時代の海岸線をトレースできるようになった。視点をドローン並みに低く下げて関東平野を見渡せば、どこまでが陸地でどこからが海だったのかが一目瞭然となる。デジタル画面の中で、巨大都市東京は突如として群島国家のような島々へと姿を変えるのだ。