曹洞宗大本山總持寺の全貌!永平寺との違いや見どころ・能登の今に迫る

曹洞宗大本山總持寺の全貌!永平寺との違いや見どころ・能登の今に迫る

神奈川県横浜市鶴見区の広大な丘陵地に威容を誇る曹洞宗大本山總持寺。年間を通じて多くの参拝者が訪れるこの名刹は、福井県の大本山永平寺と並び、全国に約1万4000寺を数える曹洞宗の信仰を支える「両大本山」の一翼を担っています。

なぜ曹洞宗には2つの大本山が存在し、それぞれどのような役割を果たしているのでしょうか。明治期に起きた能登から鶴見への劇的な移転劇の真相から、広大な境内に点在する登録有形文化財、名優・石原裕次郎氏の墓所、さらには坐禅体験や御朱印情報、能登半島地震を経た「總持寺祖院」の現在まで、その全貌を余すところなく解説します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:曹洞宗は道元禅師が開いた「永平寺(出家修行の根本道場)」と、瑩山禅師が開いた「總持寺(教えを広める布教と大衆教化の道場)」の両大本山体制をとっている。
  • 要点2:1898年の大火を契機に、国際港・横浜を臨む鶴見へ移転。50万平方メートルに及ぶ境内には国内屈指の巨大木造伽藍や石原裕次郎氏の墓碑が佇む。
  • 要点3:2026年最新の拝観・御朱印・坐禅会・精進料理の利用ガイドに加え、被災地・能登に坐す「總持寺祖院」の復興の歩みと支援の現状を詳報。

【歴史と移転の真相】太祖瑩山紹瑾による開山と能登から横浜・鶴見へ移転した理由

曹洞宗の歴史を紐解く上で欠かせないのが、宗門において「太祖」と仰がれる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師の存在です。1321(元亨元)年、瑩山禅師は能登半島(現在の石川県輪島市門前町)にあった真言律宗の諸嶽寺を譲り受け、禅寺へと改めて「諸嶽山總持寺」を開山しました。道元禅師の教えを受け継ぎつつも、民衆の苦悩に寄り添い、戒律や儀礼を整えて門戸を広く庶民に開放したことで、總持寺は全国に末寺を急拡大させていきます。

長きにわたり能登の地で隆盛を極めた總持寺に最大の転機が訪れたのは、明治時代後期の1898(明治31)年4月13日夜に発生した大火災でした。境内の主要な伽藍がほぼ全焼するという未曾有の悲劇に直面した当時の第67世貫首・石川素童(いしかわそどう)禅師は、単なる復興にとどまらない大胆な決断を下します。それが「首都圏への本山移転」でした。

当時、日本は急速な近代化と国際化の渦中にありました。石川禅師は、教団の未来と世界への禅文化発信を見据え、東京に近く、国際貿易港として発展著しい横浜の地を選定。地元有力者や鉄道会社らの誘致活動も実を結び、1911(明治44)年に横浜市鶴見への移転を果たしました。これにより總持寺は近代的大寺院としての新たな歴史を歩み始め、元の能登の地は「總持寺祖院(そいん)」として今日まで守り伝えられることとなったのです。

【永平寺との決定的な違い】曹洞宗における「両大本山」の役割と特徴を比較

仏教の宗派において本山が2つ存在する形態は極めて珍しく、一般の参拝者からも「どちらが本山なのか」「何が違うのか」という疑問が頻繁に寄せられます。曹洞宗では釈迦牟尼仏を中心に、高祖・道元禅師(永平寺開山)と太祖・瑩山禅師(總持寺開山)を「一仏両祖(いちぶつりょうそ)」と称し、永平寺と總持寺を同格の両大本山と定めています。両寺の関係は「車の両輪」「鳥の双翼」に例えられますが、その性格と役割には明確な違いがあります。

福井の深山幽谷に位置する永平寺は「根本修行道場」としての色彩が強く、開祖・道元の「只管打坐(しかんたざ=ただひたすら坐る)」の精神を純粋に追究し、外界から隔絶された厳格な修証を旨とします。山深い自然環境と静寂そのものが修行の場であり、伝統的な禅の原風景を色濃く残しています。

一方、横浜・鶴見の總持寺は「布教・教化・国際発信の拠点」としての役割を担います。瑩山禅師の大衆包摂の精神を受け継ぎ、開かれた禅寺として一般信徒や海外からの求道者を積極的に受け入れてきました。立地も首都圏の交通至便な場所にあり、広大な敷地内には鶴見大学をはじめとする教育機関も併設されるなど、社会と直結したダイナミックな活動を展開している点に際立った特徴があります。

斉藤 蓮
Penulis

斉藤 蓮

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。