瀬戸内海から約15キロメートルほど内陸に入った広島県東広島市西条町。酒蔵の白壁が並ぶ穏やかな盆地の一角に、突如として威容を誇る巨大な墳丘が現れます。国の史跡に指定されている「三ツ城古墳(みつじょうこふん)」は、全長約92メートルを誇る広島県内最大の前方後円墳です。築造当時の美しい葺石(ふきいし)と円筒埴輪列が忠実に復元された姿は、西日本屈指のスケールと美しさを兼ね備えています。
なぜ海の覇権が争われた古墳時代中期(5世紀前半〜中頃)、沿岸部ではなく内陸の西条盆地にこれほど巨大な前方後円墳が築かれたのでしょうか。1980年代から本格化した発掘調査の記録や出土品、そして最新の古代史研究をもとに、被葬者の正体とこの地に秘められた歴史の真相を解き明かしていきます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】- 要点1:三ツ城古墳は5世紀前半〜中頃に築かれた広島県最大の前方後円墳(全長約92m)であり、約1,800本もの埴輪と精緻な葺石で完全に復元された国指定史跡。
- 要点2:被葬者は西条盆地を統治し瀬戸内水運と内陸交通を掌握した古代豪族「安芸国造(あきのくにのみやつこ)」の初期首長と推定され、大和王権と直結した軍事・政治的有力者。
- 要点3:JR西条駅からバスで約10分、無料駐車場も完備された「三ツ城近隣公園」内に位置し、秋の「三ツ城古墳まつり」など歴史散策や家族連れのスポットとして高評価を獲得。
【広島県最大の規模】三ツ城古墳の歴史と5世紀に築かれた圧倒的スケール
東広島市西条町中央の三ツ城近隣公園内に位置する三ツ城古墳群は、3基の古墳で構成されています。中心となる1号墳は、墳長約92メートル、後円部径約62メートル、高さ約13メートルに及ぶ雄大な前方後円墳です。これに隣接して直径約25メートルの円墳である2号墳、そして低平な楕円形墳の3号墳が寄り添うように配置されています。
東広島市教育委員会による調査報告書によると、1号墳が築かれたのは5世紀前半から中頃(古墳時代中期)。当時の安芸地域(広島県西部)において、これほどの規模を持つ前方後円墳は他に見当たりません。墳丘は3段に築かれ、斜面には約15万個とも推計される葺石が敷き詰められていました。さらに墳丘の各段には円筒埴輪や朝顔形埴輪が整然と並べられ、後円部の頂上には家形、盾形、靫(ゆき)形、水鳥形、鶏形といった多様な形象埴輪が厳かに配置されていたことが確認されています。
1982年(昭和57年)に国の史跡へ指定された後、1990年代初頭にかけて徹底的な学術調査と復元整備工事が実施されました。現在見られる白銀の葺石と赤褐色の埴輪列は、古代人が目にした壮麗な姿をそのまま現代に蘇らせたものであり、西日本の考古学界でも極めて高い評価を受けています。
【被葬者の真相】なぜ内陸の西条盆地に?発掘調査と大和王権の影
三ツ城古墳をめぐる最大の謎は、「これほど強大な権力を持った被葬者はいったい誰なのか」という点です。瀬戸内海沿岸の港湾部ではなく、標高約220メートルの内陸盆地に位置する西条の地に、なぜ大和王権の象徴である前方後円墳が築かれたのでしょうか。
1号墳の後円部頂上からは、3つの埋葬施設が確認されています。
最も重要視される第1主体部(竪穴式石室)は、長さ約4.5メートル、幅約1メートルの大規模な石室で、内部には竜山石(兵庫県高砂市周辺で産出される高級石材)製の組み合わせ式石棺が納められていました。石室内からは、大和王権から下賜されたとみられる鏡や、大量の鉄製武器(大刀、剣、鉄鏃)、鉄製甲冑(短甲、頸甲、肩甲)、農工具、さらには高度な金銅製帯金具が出土しています。一方、第2主体部(粘土槨)や第3主体部(箱式石棺)からも勾玉、管玉、鉄製品が見つかりました。
出土品と石材の流通ルートを分析した古代史研究者や考古学界の定説では、被葬者の正体は「安芸(阿岐)国造の初代・初期首長」である可能性が極めて高いと結論づけられています。当時の西条盆地は、瀬戸内海側の安芸津や竹原方面から山陰方面へと抜ける内陸ルートと、東西の山陽交通路が交差する地政学的要衝でした。さらに広大な盆地がもたらす豊かな農業生産基盤を有していました。
ヤマト政権は、朝鮮半島への出兵や瀬戸内海の海上ルート安定化を推進する上で、この交通の要衝と後背地を抑える在地豪族を重視し、軍事同盟の証として鉄製甲冑や高級石棺を供与したと考えられます。三ツ城古墳は、単なる地方豪族の墓ではなく、国家形成期における中央政権と地方勢力の軍事・政治的結節点だったのです。