朝鮮半島の古文献や古地図に頻出する島「于山島(うざんとう)」。竹島をめぐる領有権問題において、韓国側が「古くから自国領として認知・管理してきた決定的な証拠」として持ち出すのがこの島の存在です。
しかし、歴史的文献を一次史料にまで遡って精査すると、韓国側の主張とは大きく異なる実態が浮かび上がってきます。于山島とは一体どこの島を指していたのか。日韓双方の見解が激しく対立する背景には、古地図の描写や位置関係をめぐる決定的な食い違いが存在します。現存する膨大な古記録を照らし合わせ、その真相を紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】- 要点1:韓国側は「于山島=竹島(韓国名・独島)」と主張するが、古文書の自然描写や位置関係には重大な矛盾が存在する。
- 要点2:『朝鮮王朝実録』や古地図の記録を検証すると、于山島は鬱陵島自体の別称、または鬱陵島のすぐ東隣にある小島「竹嶼」を指している。
- 要点3:外務省見解でも示されている通り、于山島を根拠に竹島の歴史的領有を主張することには学術的・国際法的な正当性がない。
【疑問を解明】古文書に登場する于山島とは一体どこの島なのか?
朝鮮の歴史記録に現れる于山島の正体を突き止める鍵は、鬱陵島との位置関係と島自体の地理的特徴にあります。結論から言えば、古文書に記された于山島は、鬱陵島の別名であるか、あるいは鬱陵島から東へわずか約2キロメートルに位置する小島「竹嶼(チュクト / チュクソ)」を指しているというのが、歴史学および地理学における客観的な到達点です。
韓国側は、于山島こそが約90キロメートル離れた「独島(竹島)」であると主張し続けています。しかし、15世紀の『世宗実録地理志』(1454年)には「于山・鬱陵の二島は県の真東の海中にある。二島は互いに去ること遠からず、風日が清明なれば望み見ることができる」との記述があります。この「互いに遠くない」という距離感は、目と鼻の先にある竹嶼には完全に合致しますが、天候が極めて良好な日にしか見えず距離も遠い竹島を指しているとは考えにくいのが実情です。
さらに後代の文献や地図の変遷を追うと、朝鮮王朝の官吏たちが伝聞や誤認を重ねた結果、実在しない架空の島を鬱陵島の周囲に描き足してしまった経緯が克明に読み取れます。
【歴史的経緯】『朝鮮王朝実録』に残された于山島の調査記録まとめ
朝鮮王朝の正史である『朝鮮王朝実録』には、官吏が鬱陵島周辺へ派遣された際の調査記録が数多く残されています。これらの一次史料における記述は、「于山島=竹島」説を根本から否定する客観的な証拠に満ちています。
例えば『太宗実録』(1417年)では、于山島を探索した官吏が持ち帰った報告として、「島には大竹が生え、土地が肥沃で、かつて人が住んでいた痕跡がある」と記されています。しかし、実際の竹島は急峻な岩山で構成された孤立岩礁であり、飲料水も乏しく大竹が生い茂るような土壌環境は存在しません。大竹が自生し平坦な土地を持つ島は、まさに鬱陵島そのものか竹嶼の景観そのものです。
また『成宗実録』(1476年)に記された金自周らの探索記録でも、鬱陵島周辺の島を巡る詳細な観察がなされていますが、そこに登場する島の描写は竹島の地理的条件とは全く一致しません。朝鮮王朝は長らく「空島政策(島民を本土へ移住させ無人化する政策)」をとっていたため、現地の正確な実況が把握されず、記録の中で「于山」と「鬱陵」の名称が混同され続けた歴史的経緯があります。